何気なく本棚を眺めたら.
Steps to FollowやRight in the Middleがボロボロだった.
臨床1~2年目の時の記憶が蘇った…
痴呆性老人のユースフルアクティビティがボロボロだった.
老健勤務時代に無我夢中で読んだ…
若い頃はいつも何かに夢中で思考は常に偏っていた,と今は思う.
色々なことに没頭して,
色々なことに偏って,
いびつな形が少しずつ円に近づいたから,
自分の変遷には後悔していない.
でも,没頭は楽しかったけれど,
いつも悶々としていたのも事実.
「作業療法とは」の答えは出なかった.
答えを出す必要があるのか?
そんな問いが何度も頭をよぎったけど,
いつか答えが出るかもしれない…
AOTAの定義に初めて出会った時は,心が震えて嬉しかったのを鮮明に覚えている.
自分がどうして「作業療法とは」を問い続けていたのか?
どうしていつも悶々とした気持ちから抜け出せなかったのか?
介入に作業を用いないことがあること.
作業という概念自体の理解が足りないこと.
介入手段が柔軟すぎること.
考えていることと,作業療法士以外に向けて発信する内容にズレがあること.
クライエントは作業に焦点を当てた介入を求めていないと感じる体験.
複数の領域を網羅する作業療法の,その全てを包む概念を言語化できなかったこと.
目的作業,手段的作業,実存的作業,この全てが作業療法士の扱う作業だという…
言い換えれば,
作業が「できること」
作業を「治療に用いること」
作業を「すること」
目的,手段,実存という言葉を使っているけれど,
この3つはすべて「手段」だと思う.
それはクライエントが「作業的存在としての健康」を獲得するために,
~作業ができること~
それを実現するためには,柔軟な介入が必要だと思う.
機能訓練,動作練習,代償手段の獲得,環境調整・・・
医療機関に所属する作業療法士が多い日本ならば選択肢も多用であるべきだと思う.
~作業を治療に用いること~
これは日本の作業療法の源流でもある.
初期から現在まで,数えきれないほどの選択肢がある.使い方を誤らなければ
効果的な諸機能の回復を促進でき,
それは結果的にクライエントの健康に繋げることができると思う.
~作業をすること~
入院や入所による環境の変化や,疾病や障害により本来の「健康」を構成していた
文脈からかけ離れたクライエントの,時間と空間をどんな作業で埋めるかは
とても大切な関心だと思う.
これら全てがクライエントの健康を支援するために作業療法士が用いる手段ならば,
作業療法士が用いることのできる具体的介入手段は,
倫理的に耐える範囲において無限であるといえる.
でも全ての人にとって意味がなくても,目の前のクライエントにとって意味があり,
それがクライエントの健康に寄与することに疑問がなければ,
その作業には介入する価値があると表明することができる作業療法は,
最上位階層の目標は,作業的存在としての健康であり,
その獲得のために,作業の力に関心を持ち,作業の力を用いること.
作業の力は,「作業ができること」「作業を治療に用いること」「作業をすること」
などの方法によって発揮されるべきであり,その実践は柔軟さを許容すること.
介入は柔軟さを認める代わりに目的と手段を明確にすること.
作業的存在としての健康とは,あくまでもクライエントの主体的な作業遂行や
習慣の集合として成立する経過であり状態であるため,目的と手段の決定に関する
意思決定に,効果的であると認められる限りクライエントの参加を促すこと.
これらの要素を踏まえれば,おそらく領域や信念間の親和性を高めながらも,
アイデンティティの危機を免れることができるような気がする.
未完