20111215

柔軟な構造





クライエントの意味のある作業について
面接や対話を進めるにあたり,
OTがその作業について,あえて「知らない」という
環境因子になることはある.

でもクライエントの主体性や語りを引き出す目的で
「知らない」という環境因子になるのであって,
面接に対する苦手意識や,関係性の構築に対する
自信の無さから選択したその手段は効果的ではない.

僕たちが知らなすぎたら,クライエントは
表出を躊躇するかもしれない.

一方的な質問ばかりではクライエントとOTの
理想的な恊働関係は構築できない.

「知らない自分」はクライエントの表出によって
変化しなければいけない.

クライエントの表出は,作業療法の資源として
大切に扱わなくてはいけない.

その作業についてクライエントが表出してくれて,
両者が共有できたとしても,
当然最初から揺るぎない意思を持って
実践に向かうクライエントばかりではない.

クライエントが作業を体験する目的を理解できなければ,
より効果的な環境因子としての戦略が必要になる.

責任を負い過ぎることで,その主体性が
抑制されてしまうかもしれない.

負わなすぎることで,自己効力感は
低下してしまうかもしれない.

経験はフィードバックの内容によって初めて
新しい肯定的な物語になるかもしれない.
反対にその作業の主観的価値を低下させてしまうかもしれない.

大切なことは,その遂行がクライエントに
どのような変化をもたらしたのかということ.

自己効力感や主体性の低下したクライエントに対して,
自分の力で遂行したという認識をいかに持ってもらうか.
そこに固執するセラピストがいるけれど関心の視点が違う.

そもそも自力でしていないものはしていない.

自力で遂行できるということは,確かに大切な要素だ.
でも誰が遂行したとか,そんな事実はあまり重要ではない.
もしも自力で遂行できることのみが重要ならば,
機能訓練と動作練習を徹底するべきだろう.

「自分らしさ」を取り戻すためには,
大切な作業に必要な「技能」を取り戻すだけでは不十分だ.
遂行の感覚を,時間を,物語を,繋がりを…
取り戻さなければいけない要素は沢山ある.

作業療法士は,肯定的な意思の循環がなければ
取り戻せないその統合を取り戻すために,
常に効果的な環境でいなければいけない.

作業療法は,その領域が,人ー環境ー作業の連関であるがゆえに
非常に曖昧・抽象的・難しいという印象を自他に与える.

しかし難しさのもう一つの理由は,連関を扱う上で,
クライエントのスタートラインがみな異なるという点だ.

八百屋に行くときは,野菜が欲しいから.
靴屋に行く時は,靴が欲しいから.

でも初めて作業療法を受けるクライエントは,
「自分の意味のある作業で構成された,良循環を取り戻したい」
と思ってOT室の扉を叩いてはいないだろう.

つまり,クライエントがその資源を採用する
目的や主体性という視点において,
作業療法は圧倒的に曖昧で不明瞭な始まりを回避できない.

よって作業療法士は,クライエントの状態によって.
介入手段に適時柔軟性を求められる.

自己を客観的に評価し,取り戻すべき作業に目を向けて
協業的関係を最初から構築できるクライエントもいる.

下位欲求が満たされないが故に様々な作業に関心を持てず,
苦しんでいるクライエントもいる.

認知機能の低下や高次脳機能障害の影響で,
作業療法を理解できないクライエントもいる.

「わかってもらえない」と嘆く前に,
しっかりと自分が何を支援する人間なのか
説明したのだろうか?

クライエントが様々な理由で理解できないのならば,
共通理解のプロセスを抜きに効果的な介入を行うための
省察をしたのだろうか?

採用した機能訓練や基本動作訓練は,
その柔軟性の下に作業療法士として
あえて採用した内容だろうか?

急性期だからとか,重傷だからとか,
そんな理由からではないだろうか?

僕たちは,社会という環境と結びつきながら
自己を循環させる複雑系である人間の,
その循環を支援する専門職であるがゆえに,
もっと自分達の作業を組織的に,構造的に
理解しなければいけない.

そのプロセスに苦しんでいながらも,
現状の中でのみ日々を繰り返し,
探求に目を向けないのならば,

おそらくそれは素人と呼ぶんだと思う.






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