20111130

見えない大陸・・・




今年のOSセミナーのレセプションの席で,
デイサービスけやき通りの葉山さんとお話する機会がありました.
葉山さんは自らがクライエントの立場で経験した
作業療法について,沢山の貴重なお話を聞かせてくれました.
その中で,とても印象に残っている話があります.

葉山さんは,「作業療法士に褒められるのは,他の誰に褒められるよりも
とにかく,とにかく本当に嬉しかった」のだそうです.

葉山さんと言えば,パスタの話があまりにも有名です.
作業療法士でパスタの話を知らない人はいないと思います,
その時の話をしてくれました.

「僕がどんな味付けにこだわりを持っているかとか,
どんな理由でパスタを作りたいと思っているのかとか.
作業療法士の先生はそのことを全部知っていたから,
とにかく僕が本当に嬉しいと思えるような関わりを
いつもしてくれたんです」

こんな話をしてくれました.

作業療法士は,クライエントの意味のある作業を「項目」としてのみ
共有しているのではありません.
OTIPMの10dimensionに代表されるように,
環境,役割,動機,課題,文化,社会,制度,心身機能,時間,適応
など,様々な側面(主観的遂行文脈)を共有しています.
だから,クライエントが意味のある作業を遂行する時,
また作業療法士がその作業の遂行を支援するとき.
その作業にどんな意味があるのか?
その作業のどんな部分にこだわりがあるのか?
その作業を媒介にどんな物語を歩んできたのか?
どんな特有の価値観をもっているのか?
などの側面を作業療法士は常に意識しています.
だから結果として,そこで生まれる声かけやアドバイス,
感想などの表出は,クライエントが(Enabling Occupation)を感じられる
ものになるのだと思います.

人間は,自分が所属する環境の中で,実際の技能の適応が求められます.
また,その環境に適応する中で,自己効力感も同時に必要です.
両者が存在するからこそ,私たちは生活における良循環を構築できます.

作業を構成している「動作」を支援しているのではなくて,
「作業」を支援するという意味を考えなければいけません.

葉山さんは,感情をおもいっきり表に出して,
僕に嬉しかった話をしてくれました.

葉山さんは,リハビリテーションには,「価値観の転換」が不可欠と言っています.
価値観の転換を図るためには,作業の可能化(Enabling Occupation)の体験が
不可欠とも言っています.

葉山さんは,話の最後にこんな話もしてくれました.

「作業療法は,僕を見えない大陸に連れて行ってくれたセラピーでした.
一人では決してそれは見えなくて,一人でたどり着くことはできないけれど,
作業療法士と一緒にたどり着けるその大陸は,どこまでも素晴らしい景色が
広がっていたのです.ぜひ沢山の障害をもったクライエントにそんな景色を
見せてあげてほしいと思っています」と・・・



作業選択意思決定支援ソフト



20111128

ただフィードバックがあるだけ・・・





面接評価が苦手だと訴えるセラピストをよく見かけます.

確かに面接は簡単ではありません.

しかし,話を聞いてみると,クライエントが大切な作業を表出してくれないことを

「上手くいかなかった面接」と捉えているセラピストが多い気がします.

はたしてそうでしょうか?

面接技術の研鑽はもちろん大切ですが,クライエントが作業を表出できなかった事実は,

「失敗」ではなくて,「評価結果」と考えるべきです.

「面接が上手くできなかった」と考えるのではなくて,

「まだ自分の大切な作業に目を向けられない段階」

と足らえたほうが妥当なクライエントも多いのです.

そこを見逃さないでください.

大切なのは,その後の介入です.

おそらく,面接で作業にうまく焦点を当てられなかった場合,

ボトムアップアプローチに転換してしまうセラピストが

多いのではないでしょうか?

もしくはなるべく拒否されないプログラムを実施することを

無意識に選択していたり・・・

クライエントが大切な作業に焦点を当てられない理由は沢山あると思います.

どんな理由であれ,クライエントは多くの作業を剥奪された状態である

ことは間違いないでしょう.

そこで必要になることは,やはりEnabling Occupation (作業を可能にすること)

の体験だと思います.

作業の可能化とは,単にできない動作が可能になるということではありません.

その作業が「できること」に加えて,

「できる」と心から思えること,

毎日のわずかな変化を感じ取れること,その変化を認められること,

その変化が次の,そして先の何に繋がるのか?それを感じることができること,

その変化を通して,大切な人,物,立場,役割,場所,時間と結びつけること,

結びつけると思えること,

自分の新しい価値観が生まれること,

これらの全てを支援することが大切です.

それは,技能の向上を支援するだけでは不十分です.

関わりの中で生まれる一瞬の変化を見逃さず,聞き逃さず,

技能と心の動きに寄り添わなければそれは実現できません.

面接が上手くいかないクライエントに対しては

苦手意識をもってしまうセラピストがいます.

そうなると,介入も「訓練」要素が強くなります.

コミュニケーションも機嫌を伺うようなスタンスになり,

結果,クライエントの技能が向上しても,

その現象は,Enabling Occupation とは程遠いものになってしまいます.

あなたが上手く作業を聴取することが,作業療法の成功ではありません.

クライエントが大切な作業を通して健康を取り戻すことが目標なのです.

自分が成功するかどうかではなくて,

クライエントが成功するかどうかで臨床に望んでください.

どこかでこんな言葉を聞きました.

「失敗など存在しない,ただフィードバックがあるだけ」

正にその通りだと思います.

僕たちは,クライエントの幸せの為に存在します.

だから,どんな結果であれ,全ての結果は次の支援のための情報なのです.

「失敗した」とか,「成功した」とか,

クライエントに関係のない感情に縛られないでください.

「結果」はクライエントの中にのみ存在します.

「成功」はクライエントの中にのみ存在します.


20111122

非現実的な推薦



活動を治療的に使用して機能障害を減少させるには、

クライエントに馴染みのある活動に取り組んでもらい、能力を強化する。

作業療法士にはクライエントにとって一見馴染みがあるように見えても、

実は文化的背景や貧困のせいで馴染みの無い活動を使用した場合には、

どのような影響があるだろうか。

この影響をどう評価し介入したらよいだろうか。

クライエントは作業療法士にその活動には馴染みが無いと言う可能性はあるか。

作業療法士は、間違いが及ぼす影響を過小評価することがある 〜Brenda Beagan〜


 

私たちの多くは、現在、クライエントを仲間として働くことの価値を認め、

サービスの使用者の熟達した意見を正当に認めようと

努力すべきであることは知っている。

しかしそうはしているが、私たちは時折

これは「専門知識の重要性を否定するものではない」(Kusznir&Scott)

ことを思い起こす必要がある。

結局のところ、クライエント中心の実践は、

理解できる展望をとること、

そして、クライエントに十分な情報を与えることが含まれ、

それによって作業生活に関して

説明の上の選択をできるようにすることであろう(Law&Mills)。

実際、クライエント中心の実践の本質は、

私たちが用いる道具の中にあるのではなく、

私たちが採用するアプローチにあるのである。

それは、作業療法士が

「動機付けられ、よく働き、ともに楽しく働き、感謝し、奮い立つ」

ようにすることで、さらになされるものであり、

そして、作業療法士が、

「非現実的な推薦」(Kusznir&Scott)

をする時に脅かされる。




20111107

根は強く幹はしなやかに枝葉は光を遮らず


幼い頃は好奇心旺盛で、いつも両親をハラハラさせていた。
今は常に本を手放せない僕だけど、子供の頃は遊ぶ事ばかりで、読書なんて殆どしなかった。
高校生活も終盤になって、ようやく将来のことを考えはじめた。

受験勉強には苦労したけれど、初めて勉強の面白さが少し分かった時でもあった。
でも専門学校時代は勉強よりもバイトの思い出が強く残っている。
勉強で興味があったのは運動学で、全ての機能障害を治せるセラピストになりたい。
そんな想いを抱いていた。

就職してからもしばらくは機能訓練ばかりしていた。
老健に移動になった時。作業療法について悩みはじめた。
クライエントの幸せに対して、OTとして僕ができることを悩みはじめた。

これまでの間に、沢山の恩師や仲間との出会いがあり、沢山の学びとの出会いがあり、
そして沢山の自分を更新してきた。

今は臨床や研究や管理や家事......忙しい中、沢山悩みながらもで全てが充実していると思っている。

簡単に自分の半生を振り返ってみても、その全ては成してきたことだ。
自分の人生を振り返って、「よく手足を動かした」なんて過去を振り返る人はいない。
確かにまちがいではないけれど。

「僕らしさ」とは、僕が成してきたことの統合だ。
人生とは,生活とは成すことだ。
成すとは、作業遂行そのものだ。

リハビリテーションの目標はクライエントの「その人らしい」人生を取り戻すことならば、
クライエントの主目標は、作業を含んでいなければいけないと思う。
クライエントの意味のある作業を含んだ人生の目標を、関わる全ての人間で共有したい。

その目標を達成するための介入手段は当然様々でいいと思う。

機能訓練に特化する職種がいてもいい。
リスク管理に特化する職種がいてもいい。
高次脳機能に特化する職種がいてもいい。

でも共有する目標は、クライエント自身の意味のある作業を含んでいることが大切だと思う。
このプロセスがあるか無いかで、各職種の「介入」という作業のエミックが変わると思う。
エミックの変化は介入における表出など様々な要素を洗練させ、そしてそれは
クライエントの解釈を前向きに変える力を持つと思う。

作業療法士は、作業の力でクライエントの健康を支援する専門職だ。

時には作業に必要な身体機能の再獲得を支援するかもしれない。
時には作業に必要な動作の獲得を支援するかもしれない。
時には作業を一緒にするかもしれない。
時には作業に必要な環境を整備するかもしれない。
時には作業したい気持ちを取り戻すことに焦点を当てるかもしれない。

人間には大切なものが沢山ある。

「大切な場所」
「大切な時間」
「大切な立場」
「大切な物」
「大切な人」

これらは「環境」と言い換えられるかもしれない。
これらの環境とクライエントは、全て何らかの作業で結びついている。

CMOP-Eを見ればすごく分かりやすい。




人は、作業を介することで、環境と強く結びつくことができる。
「大切な自分」になることができる。

でも、その実践は容易ではない。
いつも作業療法の複雑さと多様さに陶酔しながら、同時にいつも悩んでいる。

作業療法には「プロセスモデル」というものがある。
僕の臨床は、OTIPMを”ベース”にしている。




OTIPMはとてもシンプルで洗練されている。
作業療法介入において大切な要素を各段階でしっかりと捕まえている。

ラポールや主観的作業遂行文脈の確立によって
作業療法士とクライエントは、クライエントにとって意味のある作業を含んだ生活と、
その意味のある作業の”意味”を構成している理由を明らかにできる。

僕はこの段階でADOCを使用することが多い。
COPMを使ったっていい。OSAだっていい。
どんな評価法を使用するか?よりも、この段階をしっかりとクライエントと共有することが大切だと思う。

作業遂行の分析には可能な限りAMPSを使用する。
作業遂行上の問題をすぐに機能評価に頼るのではなく、まずは”作業の体験”を経て遂行の質を観察評価する。

介入モデル選択の段階は、OTIPMの定義のそれよりもかなり柔軟に考えている。
CMOP-Eが示すように、作業を中核に据えた 人ー作業ー環境すべてが作業療法の対象領域なのであれば、
その介入は当然多様性をもっていなければならないと思う。

僕は、クライエントが意味のある作業を取り戻すために妥当であると思えば機能訓練もする。
動作練習もする。環境調整もする。手段的作業も使う。家族指導もする。何でもする。

意味のある作業(項目)だけを抽出しても、クライエント特有の文脈を無視しては、
真の可能化の方法は導けない。

作業と文脈を共有しても、観察で遂行の質を評価でせずに原因を機能障害だけに求めたら、
それはただのトップtoボトムでしかない。介入手段選択に対する視点を狭小化してしまう。

作業と文脈を共有して、観察を行っても、機能に対してしっかりと評価、介入できるスキルを有していなければ、
今の日本の医療の中でコンセンサスは得られない。

OTIPMなど既存のモデルの重要な要素はしっかりと踏まえながらも、自分達のフィールドでより効果的に活用できるように、
柔軟に使用することが重要だと思う。

でも自分達の都合の良い解釈だけは避けたいと思う。
機能訓練に関心があるから、とにかく作業の可能化に向けて特定の手技で介入する。
機能評価や機能訓練の知識に自信がないからすべて作業でのみ介入するなど、
どんなにクライエントの意味のある作業を共有しても、これだけは絶対に良くない。

何故意味のある作業の”項目”だけを共有するのではなくて、
主観的遂行文脈を共有するのか?なぜ観察を重視するのか?
それは、クライエントにとって最も有効な可能化の手段を見つけるため。
その客観性を無視して、自己の興味関心、得手不得手で介入手段を選択していては、
このプロセスの意味がなくなってしまう。

作業に焦点を当てるという専門性を大切にしながら、その実現のために有効な手段を
多様にもっている。そんなOTになりたいといつも思っている。